KINGKONGSのあゆみ
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現役・コーチとして活躍中のOB紹介
猩々の末裔 |
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この男がいなかったら、横浜高校アメリカンフットボール部は存在していない。まさに「創部者」である。
中学時代野球部で捕手として活躍した水野は、横浜高校に進学すると、迷わず野球部に入部する。全国レベルの野球部は彼にとって憧れであり、そこで活躍することこそ彼の高校進学における目標だった。しかし、練習に参加してみれば特別サイズに恵まれていたわけでもなく、チームとしての練習に加われないもどかしさが彼を襲う。やがて1年次終了を待たずに野球部を退部、無目的な日々は何よりつらかった。そんな時、ふと目にしたアメリカンフットボールの試合が彼を目覚めさせた。彼は授業を受け持っていた山本琢磨先生にこんなレポートを提出している。「野球では挫折を味わった。でも、アメリカンフットボールなら自分を活かせそうに思う。自分の力を試してみたい。アメリカンフットボールがやりたい。」当時、ラグビー部監督であった椿先生は琢磨先生からレポートを読まされ、早速水野を呼ぶ。「正直言って前途は暗い。グランドもない。部として認めてくれないかもしれない。それでもやりたいという仲間がいるのなら、チームを作ろう。」水野は仲間を集めた。野球をやめた者、ブラブラしていた者、力を持て余していた者。11人には満たないまでも、「やる気」のある男たちが揃った。KINGKONGSのスタートだった。
彼らは卒業までにただ一度の公式戦も経験していない。数回の練習試合を戦ったのみである。文句や不満も山ほどあったと思う。しかし最後までKINGKONGS選手としてプライドをもって活動し、卒業していった。だからこそ「今」がある。頭が下がる。
水野は、2年の浪人後法政大学経済学部に進学、トマホークスでRBとして活躍。腰を痛め、選手を断念するまでアメリカンフットボールを愛した。今はOBとして、「猩々の末裔」たちを優しく見守っている。
第1期には、QB白井・C吉村・WR下郡・LB大谷ら個性派が揃い、もしこのチームが正式に認められていれば、県大会上位進出は間違いなかっただろう。「幻の最強チーム」であった。
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水野ら第1期の選手が3年生になった年、新入生として横浜高校に入学、アメリカンフットボール部に入部したのが鈴木純だった。身体は小さかったが、運動センスに恵まれ、QBとして後にチームを率いる存在となる。
その年の夏、チームは神奈川県高体連準加盟扱いとなり、公式戦出場の可能性が高まった。密かにこのチームのポテンシャルを期待していた関係者は、おおいに夢を膨らませていた。ところが秋季大会開幕間近の練習で、DB大石貴之(当時1年)が意識不明となり、入院するという事故が起きた。正式な部としての認可を得る前でもあったし、当然のことながらチームは活動自粛を余儀なくされた。これで第1期選手の公式戦出場の望みは事実上断たれたことになる。(大石は結局3ヶ月の闘病の後、帰らぬ人となった。) その後は、選手にとって辛い日々が続いた。練習は事実上できない。彼らは椿先生の指導するラグビー部の練習に参加して体力維持をはかり、いつの日かアメリカンフットボールの練習を再開することを誓い合った。大石の他界後、ご両親からも是非活動を再開してほしいとのご理解をいただき、昭和63年に同好会として認可されラグビー部から独立、ついに秋季大会の対抗戦に出場できることとなった。
冷たい秋雨の中、鈴木にとって最初で最後の公式戦がキックオフ。相手は当時新鋭ながら関東大会出場の期待が高かった県立長後高校(現在は活動休止)。鈴木はオフェンスを率い、自らのキープランと安定感あるショートパスで再三敵陣を脅かした。結果は0-36の完敗だったが、KINGKONGSがわずかに覗いた光明を掴み、チームとして活動を認知される大きなゲームだった。試合後、亡き大石に選手も関係者も心の中で合掌したことは言うまでもない。
鈴木は卒業後、専門学校を経てホテル・ニューグランドに勤務。同期にはC竹元、T金子、DB佐々木、LB岡野らがいる。
KINGKONGSが活動を再開した年に入学したのが、青柳基だった。この年の新入部員は青柳ただ一人。クラス数は13学級と普通だったが、しばらく表立った活動を控えていたため新入生に対するアピールも足りなかったのかもしれない。
厳しいスタートだったし、相変わらず前途多難なチーム状態の中で、青柳はまさに孤軍奮闘で練習に取り組んだ。やがて、同じクラスの仲間が途中入部し、同期は4名となりゲームに臨む陣容が揃った。彼らが2年になると大会の対抗戦参加が認められ、3年の秋にはいよいよ正式に全国大会県予選参加となった。
その1回戦、港南台で行われた日大高校との試合で青柳はRBとして出場した。ゲームは0-8と先行された前半終了間際、日大RBがKINGKONGS渡辺(LB・当時1年)の強烈なタックルで頭部を地面に強打、救急車で退場し試合は中断、後半は次週に持ち越しという異常事態となった。翌週長後に場所を代えて行われた後半、結局伝統校の意地を見せた日大に敗れることになるが、初の予選大会出場、初のTD(2年WR佐野・・・のちに退部)を記録することができた。
チームとしてまた大きな一歩を踏み出したKINGKONGSを率いた青柳は、苦しく、辛い時期のチームを支えた選手として忘れることはできない。
第4期は、青柳とクラスメイトのRB吉野、LB茂、TE北原の4名だけだったが、いずれも野球・空手からのウォークオンで、アビリティは高かったし、まとまりがあった。
内田は1年の途中からウォークオン(野球部から)してきた。運動能力は高く、チーム事情もあったが様々なポジションをこなしたアスリートだった。KINGKONGS初の神奈川県高校選抜選手に選ばれ、当時埼玉・茨城・千葉地区高校選抜との対抗戦だったSICボウルに出場している。
2年次に初の公式大会参加を経験したこの代は、当初途中入部の内田らを含め10数名いた。能力の高い選手もおり期待されたが、3年次最終的に選手登録をしたのはわずか3名だった。練習に取り組む姿勢、競技に対する思いなどで温度差が生じた結果だった。最後の秋季大会、慶応義塾とのゲームでは、RB・LBの攻守兼任でチームを率いた内田自身が負傷。思いもかけぬ大敗を喫してしまう。1.2年生主体の若いチーム陣容だったので如何ともしがたかったのだが、残念なシーズンとなってしまった。しかし内田は、神奈川選抜選手の実力が認められ、関東学院大学のセレクションに合格、4年次には副将・LBとして活躍後大学のコーチも経験した。現在は川崎の消防士をしている。
第5期は、内田を含め3名。1年次からの生え抜きで、法政大学に進学し同好会チームで活躍したLB宮沢、同じく法政大学でトマホークスのトレーナーとなり、現在もトレーニング関係の仕事をするNG松本がいた。
「気は優しくて、力持ち」。KINGKONGS伝統の大型ラインの中心。サイズを利した堅固なプロテクションは県下でも注目の存在だった。
篠の入学年度は、1年生全部で18クラスというとんでもない急増期だったが、その分各運動部は新入部員確保が順調だったといえる。KINGKONGSもこの年20名を超えるルーキーを迎え、校内でも一二を争う大所帯となり、ついに同好会としてラグビー部からの独立を果たした。秋には初めて予選大会に出場、敗れはしたものの、初得点を記録した。
彼らが3年になると、いよいよチームとしての実績が評価され、部への昇格が決まった。気合の入ったチームは、校内での夏合宿をこなし秋季大会に臨んだ。雨中の1回戦、県立舞岡との対戦。KINGKONGSはDB田代のパントリターンで得た1TDを守りきり辛くも勝利。続く2回戦では横浜商工を追い詰めながら逆転で敗れたが、公式大会での初勝利という歴史を刻んだこの代のチームは、のちの安定感に満ちたKINGKONGSカラーを確立したといえるだろう。ラインコーチとして、この年から就任した吉野昌彦先生(現横浜中学校)の尽力も大きかった。篠は攻撃ラインの中心となってチームを率い、キャプテンシーを発揮した。
第6期は、大人数だっただけに個性派も揃っていた。選手として大学に進んだDE斉藤(帝京大学)、DE藤野・DB田代(ともに流通経済大学)、プライベートリーグで活躍するRB丸岡、LB渡辺、DB松下、DE大西、QB新栄らが3年までがんばった。篠はセレクションで関東学院大に進学、選手として活躍したが、卒業後専門学校に再進学、現在は整骨院を開業し、スポーツトレーナーとしても大学・高校の運動選手を治療している。
寡黙だが行動力に溢れる頼れる主将。それが武田だった。恵まれた運動センスとボディバランスで、攻守に活躍するマルチプレイヤーだった。
武田は、相模湾を望む三浦半島から通学していた。交通の便も悪く、横浜高校での部活動は決して楽ではなかったはずだが、真摯に通学、練習にも積極的に取り組んだ。ルーキーの時から攻守にわたりそのポテンシャルの高さを見せ、2年次の「初勝利」にも守備で貢献した。3年の春、これまでで最高のチーム状態という評価のKINGKONGSは、1回戦で県立上鶴間と対戦。勝ち進めば関東大会の期待も高かった。ところが、直前に主力級の選手が次々と負傷、0-6で足元をすくわれてしまった。コンディショニングの重要性を痛感した敗戦だった。秋に雪辱を期すべく、KINGKONGSは初めて山梨県忍野村での夏合宿を敢行。夏休み中に行った練習試合でも成果を挙げた。満を持して臨んだ秋季大会は、武田の選手宣誓で開幕した。初戦は強豪法政二高、もちろん優勝候補である。KINGKONGSは良く闘い、何度も敵陣に迫るがTDを奪えず、逆に法政は後半徐々に力を発揮し、0-20で善戦むなしく敗れた。しかし、この試合が「KINGKONGS強し!」の評価を確立させたといえるだろう。(法政は決勝で慶応に敗れるも、全国大会で優勝した)
武田は、卒業後浅野工学専門学校に進学、同時にプライベートリーグで選手を続けた。第7期のメンバーには、帝京大学でTE・マイカルベアーズでWR・五洋建設でLBとして活躍する菊地、武田と同じチームで活躍したC千田、巨漢Tの湯浅、DB早川らがいた。
主将・LBとして強烈なリーダーシップでチームをまとめ、40名を超える選手を率いて全国大会予選(秋季大会)準決勝に進出、法政二高と互角の勝負をした闘将である。釘田の入学した頃、KINGKONGSは安定期であり、着々と県下の強豪の仲間入りを果たしていた時期であった。サイズには恵まれなかったが、競技に対するひたむきな姿勢と、チーム一の闘争心で攻守に活躍した選手だった。彼らが2年の秋、法政に善戦してからKINGKONGSは手ごたえを感じていた。3年の春季大会1回戦で古豪日大を下し、雨中の2回戦は当時公立の雄だった県立鎌倉。勝てば法政二高との準決勝である。一進一退の攻防の末、0-0で終了。コイントスの結果、KINGKONGSは涙を呑んだ。悔しさと同時にさらなる手ごたえを感じた一戦だった。
秋を目指し、埼玉栄高・館先生のお誘いで夏合宿を長野県北志賀高原で実施することにしたが、これがKINGKONGSにとって大きな成果をもたらしてくれた。埼玉栄をはじめとする各県の強豪校と練習をともにすることができ、その姿勢・取り組みに選手は大いに刺激を受け、チームは成長した。そして迎えた秋季大会。緒戦は県立松陽、先制されたものの逆転で勝利。続く2回戦はまたも日大、6-6で薄氷のコイントス勝ち。いよいよ初の準決勝進出である。法政二高を倒せば、念願の全国選手権・関東大会出場が決まる。ゲームは前半、ファンブルロスト、インターセプトのターンオーバーが響き、法政のリードで終了。後半に意地とプライドをかけたKINGKONGSの猛攻が法政を苦しめる。が、力及ばず終了、夢は費えた。ベスト4・第3位の賞状を手にしたこの試合は、強豪校をあと一歩まで追い詰めたKINGKONGSにとって歴史的な試合だった。
釘田はLBとして、主将としてチームをよく率い、この快挙に貢献した。卒業後は桜美林大学に進学、攻守で活躍し、4年次は主将・関東選抜選手にもなっている。
同期はDT下地(近畿大→松下電工)、DB野村・QB小島(流通経済大学)らがいた。
平成5年にKINGKONGSは、全国大会予選準決勝に進出、法政二高に敗れたものの、初の第3位となった。このチームで2年生ながらDEとして活躍したのが小柳だった。恵まれたサイズとスピードで、神奈川選抜にも選出されている。
小柳が主将として率いた平成6年度のチームは、春の段階から注目されていた。前年の法政二高との好試合の印象に加え、新人戦では慶応義塾を倒し、春季大会の前のオープン戦では慶応義塾・法政二高を相次いで破っている。そして迎えた春季大会、緒戦は神奈川大学付属(現在廃部)。攻めては2年生QB弓田の指揮するウィッシュボーン攻撃が爆発、守ってはDE小柳・DB関沢(兄)が完璧なディフェンスで圧倒、大差で神大付属を下した。続く県立松陽高戦は、攻め倦み6−0の辛勝だった。そして準決勝、再び巡ってきた関東大会出場のチャンス。相手はなんと3大会連続で日大高だった。過去2戦はKINGKONGSが勝っているが、雪辱に燃える日大の闘志は並々ならぬものがあった。決して相手をなめたわけでもなかったが、KINGKONGSは常に後手後手に回り、終わってみれば26−0の完敗だった。好選手を擁し、期待が高かっただけに悔やまれる結果(第3位)となった。さらに秋季大会では1回戦でまたもや日大高と対戦、相性の悪さなのか、前半リードしながら第4Qで逆転され、小柳たちのシーズンは終わった。
この代は、小柳をはじめ法政大学に進んだ副将の関沢(兄)やDT清水(兄)・CB水島(ともに名城大学)、CB久能(神奈川大学)、C和泉(流通経済大学)ら実力者揃いであった。小柳は東海大学に進み、旅行会社に就職したが、現在は東海大学に身を置き、チームのコーチングスタッフ(守備コ−チ)となっている。
歴代主将の中で、井澤ほど「横高」を体現した者はいない。決して大きくないその体躯から滲み出る闘志、口数少なく行動でチームを率い、倒れるまでフィールドに立ち続ける、まさに健児だった。
釘田・小柳と続いた好チームからすると厳しい陣容だったが井澤のファイティングスピリットに支えられた代だった。春は県立鎌倉高に敗れ、屈辱の夏を過ごしたが、中村コーチ(現ヘッドコーチ・横浜中学校)の参入で厳しい夏合宿を乗り切り、秋季大会にすべてを賭けて臨んだ。緒戦の鎌倉学園・2回戦の慶応義塾に完勝し、迎えた準決勝は法政二高。のちに大学屈指のQBとして名を馳せる木目田(現ライオンズQB)率いる法政をKINGKONGSは果敢に攻める。QB木目田を徹底的にLB井澤がマークし、法政に思うように攻撃させず、攻めてはワンセットバックRB井澤のランを中心に、強肩・頑強のQB弓田がノーハドルからのラン&シュートを展開。しかし、底力を発揮しだした法政についにKINGKONGSは力尽きた。またしても第3位。攻守に奮闘したキャプテンは、しばし動けず天を仰いだ。少しの妥協も無くゲームに取り組み、そしてゲームを終えた井澤の清々しくも寂しい姿だった。
井澤の同期は、彼自身のインパクトの強さから正直翳みがちだが、TE黒澤(東海大学)、T大川(神奈川大学)、QB弓田(流通経済大学)らのように大学でも活躍した選手もおり、G河本は、浪人後神奈川大学に進み、WR安武(大正大学)とともに一時期 KINGKONGSのコーチングスタッフとなった。
兄・清水康弘(DT)が3年で副将をつとめるKINGKONGSに入部した清水宏樹は、サイズこそ兄に及ばなかったが、運動能力と闘志には見るものがあり、Gとして1年次から試合出場を果たしている。この代は、新入部選手が少なく、のちの苦難の時代を予感させるものがあった。(オリジナルメンバーは、8名という例年にない少なさだった。しかし、宏樹が主将となった3年次には、ウォークオンによる入部者を加え11名となっていた。)
宏樹は、やがてそのスピードと突破力を活かしRBにコンバート。守備でもLBをこなし、チームを牽引した。3年次春には静岡遠征を敢行、強豪・三島高と互角のゲームをし、大会への期待を高めたが、準々決勝で、横須賀学院にまさかの完封負け。夏の練習・合宿は、またも厳しいものとなった。そして迎えた秋は、準々決勝でエースRBのひとり新居が肘を負傷、TE岡沢も足首を負傷し、劣勢となったところ県立舞岡高に逆転負け。チャンスをものにすることができず、不本意なシーズンであった。
最終的に11名を擁した宏樹の代は、個性派が揃った。副将LB佐藤(郵便局勤務)、TE岡沢・LB安藤・T山口(宏樹とともに神奈川大学)、流通経済大学でQBとしても活躍したCB藤井、初の日大フェニックス選手となり、一時KINGKONGSコーチングスタッフにもなったDT鈴木亮平、同じくコーチとして後輩を指導してくれたT太田らであった。宏樹は神奈川大学卒業後、学生援護会ロックブルに所属、選手として活躍している。
三上は、生真面目で心優しいキャプテン。その人柄に選手もスタッフも、今で言うなら「癒し系」を感じていたのかもしれない。
彼らの代も、少子化・部活動離れの影響を受け始め、新入部員は8名と少なかった。それでも1・2年次はチーム陣容も何とかなっていたが、前年度の清水宏樹らが卒業した後、三上らの新チームはついに11名ギリギリとなってしまった。
春季大会は「一人でも負傷したら終わり」の状態で戦うことになったが、1回戦の浅野高戦(新人戦で勝った)で痛恨のコイントス負け。悔しい思いをしたと同時に、この年大量の新入部員を得て、秋に望みをつなぐことができた。秋季大会はその新1年生を多くメンバーに加え選手の士気は高く、県内屈指のQBに成長した関沢(弟)率いるパッシングオフェンスは緒戦の横須賀学院戦から爆発。しかし、要所で「若さ」を露呈し、次の慶応義塾に惨敗してしまう。三上はこの最後のゲームで膝の靭帯を負傷したが、神奈川大学に進み、選手として復帰、4年次は副将をつとめたあと日立に就職、ハリケーンズで活躍した。
同期には、神奈川選抜で最優秀選手賞を受賞した関沢兄弟の弟明信(神奈川大学)、帝京大学へ進み副将をつとめ、現在は学生援護会で選手を続けるDL倉品、同じく帝京大学で主務として活躍したT西沢、快速RB三縄(帝京平成大学)、調理師となったT真下らがいる。
平成8年度入学試験が終わり新入生が確定した3月、「アメリカンフットボールをやりたいという新入生がいますよ。」と某先生から告げられた。入学式を前にして何と幸先の良い話だろう。早速連絡を入れてみることにした。お母さんに聞いてみると、本人はアメリカでの小学生生活を送り、帰国して中学校では野球やサッカーをしていたが、アメリカ時代に親しんだフットボールを高校ではやりたいという。はやくも平成8年度の新入部員を獲得できたスタッフは、大喜び。彼が期待のルーキー・城島だった。ところが、入学式後入部届けを出したルーキーは城島ただ一人。KINGKONGS苦難の時代がスタートした。
結局城島の代は、最終学年まで一人。同期に野球部の松坂・後藤(西武ライオンズ)らがおり、三冠を達成した年であったが、野球部以外の部活動はどういうわけか低調だった。そんな時代に城島はまさに最後まで孤軍奮闘した。主将となった3年次、若いメンバーのチームを率い、春は第3位をもぎ取った。秋は若さが露呈し、ミスの多い展開から県立松陽に1回戦負けだったが、城島の存在感はチームに確実にインパクトを与えた。チーム事情によりバックスからラインまで様々なポジションをこなし、同期のいない辛い状況にも耐え、次代のKINGKONGSへ伝統を引き継いだ功績は大きい。
名城大学に進学した城島は、大学選手としても活躍、同大の東海学生リーグ優勝にも貢献している。現在は綜合警備保障に勤務。
横高正門前にあった弁当屋「吉祥」のメニューに「ジョーさんランチ」があった。
おかみさんもまたジョーの頑張りを称賛するファンの一人だった。
田中はなんと特進コースで入学し、フットボールへの情熱から一般コースへ転科した強者キャプテンである。とはいえ、入部当初はヒョロヒョロの選手で、身長こそ高かったがとてもラインの主力になるとは考えられなかった。しかし、真面目な練習への取り組みと向上心で着々と力を付け、2年次にGのスターターを得ると機動性豊かな技巧派ラインとして主将城島を助け活躍、秋季大会でベスト4に返り咲き第3位の賞状を獲得。3年次には責任感の強さからついに主将に推された。
この代は、久しぶりの大量入部者があり期待されたが、残念ながら志半ばで部を去る者も数名おり、結局個性溢れるメンバーが残った。リターナーとして非凡な走りを見せた副将谷口(成田空港勤務)・同じく副将で巨漢Tの高橋(帝京大)・流通経済大学でU-19に選ばれたC綱島・現KINGKONGSラインコーチをつとめる遠藤(関東学院大)・スーパーRB大木、アスリートDB三浦(ともに帝京大)・クラッチキャッチの名手WR佐野(國學院大・鶴岡八幡宮神職)などに支えられ、田中は主将の重責を見事に果たし奮闘、3年次秋の準々決勝で法政二高を追い詰め、敗れはしたが強いKINGKONGS復活を印象づけた。
田中は名城大学に進学、城島とともに東海学生リーグ優勝に貢献、同大のコーチとして活躍した。
KINGKONGS歴代主将中、トップクラスのキャプテンシーを発揮した男。1学年上の田中の代から横浜中学校からの入部者が増えてきたが、斉藤もその一人。復活した伝統のKINGKONGS魂を支えた男である。試合前HAKAの初代リーダーでもある。
攻守にその高いアビリティを発揮、有言実行・常に先頭に立ってチームを率いた。3年次優勝をも狙える陣容を得て、夏の強化練習に臨んだが、斉藤は合宿直前の練習で鎖骨を骨折。しかし斉藤は、鎖骨固定もはずれないまま常にフルスタイルで練習に参加、強化合宿でも声を嗄らしてチームを鼓舞し続けた。
何とか間に合った秋の大会、高校フットボール界の評価も高かったQB鈴木(帝京大)率いるKINGKONGS伝統のパスオフェンスで勝ち進んだが、宿敵慶應義塾に主導権を奪われ攻撃が不発、惜しくも敗れた。スリムながら力強いランでグラウンドアタックを担ったRB今野(奥羽大)・鈴木のメインターゲットWR松下、闘志溢れるLB藤元(ともに産能大)・スピード派ラインでTD誌の選ぶトップボーイ100に選ばれたG馬場(専修大)・キン肉マンDT小島(山梨学院大)・センス抜群のDB出口(桜美林大)など戦力的には充実した代であっただけに悔やまれるが、それぞれが自分の役割を見事に果たし、次代への望みを託した。
斉藤は東海大学に進学、2年次まで選手として活躍したが、3年次から総務入りし、トライトンズのみならず全日本チームのマネジメントもこなし、チームの顔として奮闘した。
1年次の秋、WRとしてQB鈴木(帝京大・当時2年)のターゲットとしてTDパス捕球で鮮烈デビューした宮地は、その後RBにコンバート、チーム事情からLBもこなしたアスリートである。この時期KINGKONGSの所帯は3学年25名ほどで、大きくもなく小さくもなくであったが、関東・全国を狙うには選手層の薄さが気になるところであった。 そんな中、真面目な取り組みと頑強な身体で1年から活躍した宮地が主将に推された。彼らの最終学年・春は、組み合わせの妙で法政二高と慶應義塾が同じブロックに入り、KINGKONGSは県立校の固まるブロックに配された。大きなチャンスであった。ただ、この代のチームはやはり攻守に選手層が薄く、またどこか安心感のない安定しない戦いを続けていた。迎えた1回戦は、県立鎌倉。肝心なところで攻守が噛み合わず、最終第4Qに奪われたTDで敗戦、チャンスをものにすることができなかった。
屈辱の夏を北志賀と復活した忍野の2回の合宿で越え、たくましくなったKINGKONGSは秋に臨む。1回戦は横浜商工(現横浜創学館)、宮地のランなどで大量80点を奪い完勝。続いての2回戦は慶應義塾。この試合、第1Qこそ凌いだものの第2Q以降慶應の怒濤の攻撃を防ぎきれず、思わぬ大差での敗戦となった。チームをより高いレベルに引き上げるため、宮地は奮闘したが、夢叶わずとなった。しかし、彼らの意識レベルの向上が次代のKINGKONGSを本当の意味での強豪校にしてくれたのである。
宮地は副将DB小島とともに東海大学に進学、巨漢T川上は法政大学、アスリートDE鈴木(専修大)・強肩QB荻田、フィジカルDB伊藤(ともに流通経済大)・堅実なT川名(神奈川大)・強気なC金山(神奈川県警)らが活躍した。
入部以来、フットボールが大好きで大好きでしょうがない、そして好きなフットボールのためなら何でもする。そんな一生懸命な男が主将になった。
相変わらず続く選手層の薄さを気迫と情熱、そして研究で何とかしようと奮闘した忘れられない代である。
新チームとなった新人戦で法政二高に雨中戦で敗れ、改めて強豪チームの厚みを味わったKINGKONGSは、前年度から始まった千葉県館山市での春季合宿で埼玉栄・足立学園とのスクリメイジをこなし、春の大会に向けてチームを作った。1回戦は古豪日大高。KINGKONGSは2年生QB菅原の活躍と攻守で豊富な運動量を見せた佐藤(RB/DB)、闘志溢れる守備で日大攻撃を完封に仕留めたLB前田らの活躍で勝利をものにすると、次戦の県立港南台に薄氷の抽籤勝ち、ベスト4に返り咲いた。準決勝の相手は宿敵慶應義塾。好試合ながらまたも敗れ、第3位となった。しかし、この試合で戦える手応えを感じたKINGKONGS戦士は、秋に照準を合わせ夏の練習を乗り切っていった。
満を持して迎えた秋季緒戦、県立鎌倉を完封で屠ると、次戦の県立松陽も撃破、春に続いてベスト4に進出。いよいよ準決勝、法政二高との対戦。先制しながら同点に追いつかれ前半を終了、疲労の見えてきた後半に突き放される展開で7−21という惜敗であった。またしても第3位。後半に現れるチーム力の差は如何ともし難く、涙を呑んだが、胸をはっていい戦いであった。
佐藤は帝京大学に進学、思い切りの良い動きで活躍、アンダー19日本代表となり、ハードタックラー前田は日本大学に進みフェニックス守備陣のパレスガードとなった。他に現コーチのRB古沢(玉川大)・DT益子(産能大)・パワー派LB渡邊(関東学院大)らが活躍。
特進コースに入学した高山は、兄もフットボール選手。サイズは小兵だが、運動センスに溢れ、1年次から守備で随時試合出場した。
この代は入部者も少なく、将来的に危機感を持たざるを得なかったが、同期に天才アスリートQB菅原(法政大)を擁し、爆発的な攻撃力を秘めていた。
2年次に春・秋ともベスト4・第3位だったこの代のKINGKONGSは、3年次主将高山のもと、いよいよ近づいた関東・全国への道に踏み出した。しかし、選手層の薄さから高山・菅原ら中心選手にかかる身体的負担は少なくなく、春は慶應義塾、秋は法政二高にともに準決勝で敗れた。残念な結果で幕を閉じたが、個々の資質は高く、よくまとまり、戦術的にも高いレベルをクリアした代であり、KINGKONGS史上4シーズン連続ベスト4・第3位でシード権を得たのは初めてであった。
高山は結局3年間特進コースに在籍し、専修大学に進学しDBとして活躍。他にルーキーイヤーから大活躍の菅原とともに法政大学に進んだ大型LB太田、頑強DB二宮(桜美林大)・海上保安官となった技巧派G坂詰・運動未経験ながらエースレシーバーに成長し、関東学院大学で活躍する斉藤らが活躍した。
1.2年次4シーズンを第3位シード校として戦ってきたこの代は、ルーキーイヤーからWRとして活躍した影澤を主将に、重量・頑強ラインを擁する手堅い攻撃で春の関東大会出場に手が届くであろうと目されていた。しかし、第4シードで迎えた緒戦、県立松陽の粘りに対して噛み合わない攻守で得点が奪えず、6−7の1点差でまさかの敗戦を喫した。総合力では圧倒的優位に立ちながら落としたこの星は、宿敵慶應義塾がチーム力弱体化を噂されていたシーズンだっただけに痛かった。しかも、大会後主力3年生がQB笹井をはじめ5名引退を表明、チームはまったくのゼロから秋に向かってスタートせざるを得なかった。
QB不在の中、夏の合宿を含む強化練習はとにかく攻撃の整備が中心となった。スタッフは、主将・影澤をQB起用し、ショットガンで戦うことを決定、いよいよ秋を迎えた。影澤は期待に応え、その走力を存分に発揮、フィールドゴールレンジに入れば、K寺西(関東学院大)のキックで確実に得点するパターンを作り上げた。緒戦の県立港南台、準々決勝の県立上鶴間をショットガンを使わず無難に退け、準決勝で慶應義塾とまみえることとなった。台風の影響で最悪のコンディションながら、KINGKONGSはショットガン攻撃を爆発させ快勝、悲願の決勝進出を果たした。 迎えた決勝、法政二高に先制し、上々の立ち上がりを見せたKINGKONGSだったが、連戦の疲労とチーム力の差は如何ともし難く、惜しくも優勝を逃した。 プレーオフに進んだKINGKONGSは、北海道代表の立命館慶祥を難なく敗り、全国選手権に出場、1回戦で昨関東チャンピオン日大三高に挑んだ。前半互角以上の戦いを見せたKINGKONGSだったが、後半2本のTDとFGを奪われ、健闘及ばず0−17で遂に屈した。
チーム史上初の全国選手権出場を果たしたこの代は、惨めな春の屈辱を雪いだ忘れ難い代である。ほとんど一人で走り続けた影澤は法政大に進学、副将奈良橋(東海大)・数田(日体大)・主務冨田(専修大)と幹部の意識も高く、よくまとまっていた。ラインの中心C松井(専修大)、春引退を表明しながらも秋には選手として復帰し、チームを救ったWR佐藤百徳・DB佐藤啓一、大型TEとして注目された斉藤(専修大)、突貫LB小松らも活躍した。
入学当初からメンバーが少なく、最上級生となった時はわずか6名だったこの代は、入部前より注目されていた巨漢ライン秋山(旧姓樋田)以外は全員一貫コース出身者であった。前年度に全国選手権に初出場し、春はシードにも恵まれ、何とか関東大会に進出(2回戦)したが、新チームとしては「最弱」の状態でシーズンを迎えた。主力3年生は、献身的にチームのために頑張ったが、多数の下級生が今ひとつ一丸となれない状態が夏の強化練習期間まで尾を引き、不安なまま秋季大会に突入。それでも一戦一戦成長しだしたチームは準決勝に進出、昨シーズンと同じく慶應義塾と対戦。互角以上の手応えを感じたものの、要所で決めることができずリベンジを果たされてしまう。2年連続の全国選手権出場はならなかったが、次代に最上級生の意識を引き継ぐことができた。ちなみにこのシーズン、慶應はクリスマスボウルに進出、全国制覇を成し遂げた。
闘将・小林は攻守に中心となり文字通り粉骨砕身チームを支え、DBとして日体大に進学。副将・秋山は日本大へ、同じくLB織岡は桜美林大へ、小兵ながらグランドアタックを担ったRB板井は東海大に進学、それぞれ大学で選手として新たな挑戦を続けている。他に主務として責任を全うしたDB石原(東海大)・気骨あるWR倉橋(日本大)がチームワーク良くまとまり、チームを牽引した。
KINGKONGS史上初めて全国選手権に出場した平成16年秋季大会、宮本は1年生ながら守備エンドとしてフル出場、卓越したボディバランスと運動能力を持つアスリートである。攻守にそのアビリティを遺憾なく発揮し、文字通りチームの核であった。
この年は、中高一貫コースを中心に30名近いルーキーを迎えた。その中でとくに宮本は、はじめから光る存在であった。当初守備エンドで活躍したが、レシーバーとしての能力を開花させ、以後2年3年次はボースプレイヤーとしてチームを牽引した。
新チームとなって以来、連戦連勝を重ね、新人戦では法政二高トマホークスに1点差で競り勝ち、連勝記録を伸ばして臨んだ3年次春季大会、長身・強肩のスクランブルパサーとして脚光を浴びるようになったエースQB朝池(日本大学)の操る「コング・ガン」オフェンスは対戦チームの守備網を切り裂き、破竹の快進撃。そのメインターゲットが宮本だった。「投げれば取ってくれる」抜群の安定感、そして力強いランアフターキャッチ。グランドアタックを担ったエースRB安部(藍野大学)とともにコング・ガンを支えた。この大会でKINGKONGSは準決勝で法政二高トマホークス、決勝で前年度クリスマスボウルの覇者・慶應義塾ユニコーンズを相次いで撃破し、ついに念願の初優勝を成し遂げた。長らく突き崩せなかった「神奈川二強」に完勝し、歴史的成果を挙げたのである。余勢そのままに進んだ関東大会では、準決勝で早稲田大学高等学院ベアーズの前に苦渋をなめたが、三位決定戦で佼正学園ロータスに完勝、関東三位となった。初めてバス2台で敢行した夏の遠征・合宿では、大阪の雄・関西大倉高レイザーバックスとのオープン戦を実施、敗れはしたが全国レベルの手応えを改めて感じることができた。秋季大会、危なげなく決勝に進んだKINGKONGSだったが、法政二高にリベンジされ準優勝で全国大会に進む。プレーオフ(立命館慶祥)を経て1回戦はまたしても日大三高ブラックレジスタンス。硬くなっていた1Qの大量失点が響き、敗れはしたが、「強いKINGKONGS」を完全に定着させた代である。
法政大学に進学した宮本を主将とするこのチームの快進撃を支えた同期選手には、快足WR竹村・ユーティリティーRB藤林(ともに日本大学)、機動力で守備を翻弄させた大型ライン大石、重量ライン石渡(法政大学)、堅実なブロックが光ったG香川(東海大学)、ジャパン級K岡野(日本大学)らの攻撃陣と安定感溢れるDT上村(関東学院大学)、切れ味鋭いタックルで魅せたDE立花、ハイタワーLB谷田(横浜市立大学)・突貫LB井上(日本大学)、守備の司令塔DB関(明治大学)らの守備陣がおり、最終的には20名が残った。いずれも高い意識と旺盛な意欲でチームをKINGKONGS史上最強にしてくれた。
恵まれた体躯とそのパワーに加え機動性溢れる大型ラインとして、県下で注目された畠山は、1年次より随時出場機会を得て2年次には攻撃ラインの中核として定着した。3年次にはRBとしても出場している。
3年次主将となった彼のチームは、前年春に神奈川県優勝・関東3位、秋に神奈川県準優勝・全国出場を成し遂げた主力メンバーの大半が抜け、攻守に不安材料を抱えながら新チームとしてスタートした。
T畠山を中心に、豊富な運動量を誇り攻守両面で活躍したスーパーバック与儀(横須賀市消防)・大型WR筆谷(法政大学)・堅実なC三村(専修大学)らによるバランスアタックで攻撃、守備ではLB小宮(名城大学)・DB枝崎(明治大学)・河野(関西学院大学)らのセカンダリー陣が気を吐いたが、要所に経験値の少ない下級生を配せざるを得ないチーム事情であった。春季大会は、QBに2年生徳永を起用、与儀を温存して準決勝に進むが、雪辱を期す慶應義塾に雨中果敢に挑まれ、QB2人とも負傷退場、攻撃が崩壊して惜敗した。夏は東海地区遠征を敢行、前年同様そのまま1次合宿に入る強行軍で秋への力を築いた。迎えた秋季大会、準決勝でこれまた雪辱を期す法政二高に怒濤の攻撃を防げず敗退。春・秋ともになんとか第3位(シード権)を獲得したものの、関東・全国への道は閉ざされた。
畠山は攻守にわたり活躍、また特進コースに在籍し、国公立大学を志望しながら最後まで闘いぬき、アメリカンフットボール部選手としての「戦い方」を実践してくれた。この代は、入部当初こそ20名を超えていたが前年に比べて最後まで残った人数は少なく、かつ一貫コースが一人もいない、そして特進コースが半数という珍しい代であった。ナチュラルハンドWR高木・技巧派G清水・重量(?)RB国吉の攻撃陣、ムードメーカーDE竹内(専修大学)・ユーティリティーバックとして攻守に活躍した榎田(専修大学)の守備陣がそれぞれ奮闘した。
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